て 看護専門学校を卒業し看護師歴5年経ってみて

私は母子家庭の長女として産まれました。下に二人の妹がいます。私達の両親は私が幼稚園の頃に離婚してしまいました。母は祖母と共に私達3人の大黒柱となるしかありませんでした。専業主婦だった彼女の収入だけが私達の生きる糧でした。

母はその時思ったそうです。

「出産時にお世話になった看護師に私もなろう」

と。母は私が小学生になるのと同時に看護学校に入学したのでした。その母親の背中を間近で見て育った私は、中学生頃から私も看護師になろうと思っていたのでした。将来は分かりませんが、看護師の免許は一生使えますし、看護師の給料があれば女一人で生きていくことも可能だと思ったからです。

それに看護師になるための勉強は大変であると母を見て分かっていましたから、若いうちに資格を修得しようという思いもあったのです。美術や文学について興味があったのですが、看護師以外の選択肢を私は除外していました。いつの間にか看護師にならなくてはならないと考えていました。今振り返ってみると、ただ母の喜んだ顔が見たかっただけなのかもしれません。

そんな私は地元の公立高校を卒業し、県内の看護専門学校に入学しました。なんとか卒業し看護師国家資格を修得することができました。

「これで私も母と同じ看護師になれる」

そう思えたことが一番嬉しかったと記憶しています。実際、母の笑顔も見れましたし、誰もが喜んでくれたのです。

看護学校を卒業し現場で働き始めるが現実は厳しかった

その後、母の友人の看護師の方が勤めてらっしゃる病院に誘われ県内の公立の病院に就職することができました。配属病棟は神経内科病棟、神経難病患者の入院病棟が私の初めての病棟でした。ここで私は一般教養をはじめ、一般的なマナー、病棟看護の基本、神経内科患者に対するケアのあり方を考えて葛藤し、時に指導を頂いたりしながら4年目になるまで育てていただくことができました。

看護学校の知識では即戦力にはなれない

ところで、現在の看護学校の制度では、即戦力になり得る教育をしているといえど、実際臨床に出ても役に立てることは少ないのが現状です。それに社会人としてのマナーや一般教養に関してほとんど触れていないことも少なくないのではないかと私は思います。私もその一人でした。ただの小娘が試験を突破したからと言っていきなり一人前の看護師になれるはずがなかった、ということを数年後痛感いたしました。

1年目の夏に私は突発性難聴を発症してしまいました。目まいや吐き気といった症状も出てきてしまっていました。内服治療を継続しても症状はなくなりませんでした。特に吐き気には悩まされました。師長には状態を伝えていたのですが「頑張れるでしょ」と言う以外の言葉をもらうことはありませんでした。

「師長はこの症状がどのようなものか分かっているはずなのに・・・」

私はその言葉に虚無感を覚えました。同時に人生の危機を感じました。人生を潰されてしまう。このままここで働きたくないと強く思いました。

体調不良で退職 苦い思い出だが良い経験

そこで私はその病院を退職する決意をしました。普通の吐き気がつきまとわない生活がしたいと思ったのです。看護師として1から育ててくれた病院ということで、感慨深いものがありましたが、私の人生は私が決めようと考え直すことができました。現在も内服治療中ですが、やっと1か月嘔吐することなく過ごせています。髪も生えてきました。やっとしっかり笑えるようになりました。

私は間違った選択をしたと思っていません。ですが私の看護師としての経験の一つとして大きな勉強になったことは、身に染みて理解しているつもりです。看護師が心身共に健康に生活をすることで、患者の看護ができると私は考えることができました。