日本で看護師として働き、今ではアメリカで看護師として活躍

ナースを目指すきっかけは自分がとあることで入院したことが原因となり始まりました。

丁度、中学3年生の秋で、自分も周りのみんなも自分たちの今後の進路を決めなければいけないという状況と、それに追い打ちをかけるように、数週間後には秋の大運動会があるという時期で、運動会の練習、勉強、そして進路の決定というやることが盛り沢山の状況の時に、私は入院を余儀なくされました。

幸い病状は大したことはなかったのですが、手術を受ける必要があったため、入院期間は10日とやや長くなりました。田舎の小さな外科病院で小児病棟などというものもなく、手術後は私は老人ばかりが一緒の6人部屋に入院をすることになりました。話し相手もおらず、毎日が本当に退屈で食べるか寝ることしかやることがない状況で、私は本当に入院生活が嫌で嫌でたまらない状況にいました。

そんな私にある一人の看護師さんが手を差し伸べてくれました。老人ばかりの大部屋にポツンと退屈そうに入院している若い女の子を可哀想と思われたのでしょう。時間があるたび、私のところに来ては話し相手になってくれたり、宿題の手伝いをしてくれたりしてくださいました。大したことではなかったのですが、退屈で仕方のなかった私にとってはその看護師さんはまさに”救世主”だったのです。

彼女の優しさに強く感銘を受けた私は、その後の自分の進路を看護師になることへと集中することとなりました。母は端から私の夢に反対でした。看護師のような責任重大な仕事を私ができるのか?という思いでいたようです。父は自分のやりたいことをやればいいよと言ってくれました。私は迷うことなくとある高校の看護科を受験し、無事合格しました。

高校卒業時に看護科の生徒は全員、准看護師の資格試験を受けることがその高校の看護科カリキュラムの一部として義務付けられていましたので、受験をし無事に准看護師を取得し、正看護師の資格を得るため看護短大へと進学しました。看護短大卒業時に受験した正看護師の国家試験も無事に合格し、晴れて正看護師として働きだしたのはもうずいぶん昔の話です。

地元に戻って病院勤務をしていた でも・・・

関東の看護短大に通っていたのですが、両親のたっての希望もあり、卒業後は付属の大学病院に就職せず、実家のある田舎に戻り、こじんまりとした消化器系専門の病院に就職しました。そこで私を待っていたのは、厳しい上下関係のある女性特有の看護師社会でした。戸惑いながらも毎日が必死で悩む暇もありませんでした。

その病院は新人ナースたちのために体験制度を導入していて、半年ごとに手術室から一般病棟、外来までをも含む院内にある全科をローテーションで回っていき、ローテーション終了時にナースたちの希望を募り、できる限り希望する部署に固定配属をするという形をとっていました。これが私にとっては不の作用として働いてしまったように感じます。

手術室、外科病棟のローテーションを経たのち、私はターミナルケア病棟へやってきました。ここで、毎日死と向かい合う患者さんと家族と関わるうちに、”自分の死”というものを深く考え始めたのです。

ナースになりたての若い女性が毎日毎日死と向かい合う方々と関わることで、これほどまでに憂鬱な暗い気持ちを抱くとは想像もしていなかったのです。その頃の私では若すぎて、ターミナルケアの重みや意味を理解することが出来なかったのでしょう。私はナースでいる意味を見失い始めていました。なぜこの仕事をしているのだろうかと。

看護職から離れて全く違った道へ

そして、私は入職後一年半足らずで、その職場を退職したのです。その後、私は暫くの間、看護職から離れました。人の生死にかかわらない、気楽な仕事をしたいと強く願う自分がいました。そして、とあるジュエリーショップで働き始めました。

はじめの数か月はすべてが真新しく、心身共に楽なその仕事を楽しんでいました。しかし、半年が経過するころ、毎日毎日、指輪を磨いたり、ネックレスをきれいにショーケースに飾る仕事に嫌気がさしていました。同じことの繰り返しの毎日。そんなことは看護職ではなかったことです。看護職では毎日違う出来事があり、毎日が勉強でした。そこでやっと私は気が付いたのです。私はやっぱり看護師でいるべきだと。

看護師の仕事が自分の居場所だと再確認

ジュエリーショップの仕事を退職した後、私は小さな外科病院の看護師として就職をしました。久しぶりに白衣に身を包み、意気揚々とベッドサイドに行く自分に誇りすら感じました。とても楽しく仕事をし、数年が経過したある日、その小さな外科病院は経営破綻に追い込まれ、事実上の倒産に追い込まれたのです。

幸い、地元では大きな病院が買い取るという形で難を期したのですが、外科病院からリハビリ病院へと診療科目の変更を余儀なくされたのです。外科診療に強く執着していた私は迷いもなくその職場を去りました。その後もさまざまな外科系の病院を経験して行きましたが、ある時、私の人生を一転する出来事が起こりました。

看護師生命を大きく左右する事件

インドネシアで大きな地震、津波が発生したのは皆の記憶にあると思います。その光景をテレビを通してですが見ている時、本当に悲しく、自分も何かできないだろうかという思いでいっぱいになりました。

丁度、その翌日、その当時働いていた病院がインドネシアの津波被害にあった現地に医療チームを派遣するので参加者を募るという話が出たのです。私は迷わず応募し、そのメンバーに選ばれたのです。

現地に到着し、各国の軍隊や医療チームとのやり取りの中で自分の英語力のなさを痛感することとなりました。語学学校に通い、多少英語には自身がありましたが、国際カンファレンスを行う際に全く理解できない自分がいたのです。

アメリカで看護師として活躍

帰国後、私のアパートのポストに一通のパンフレットが届いていました。それは、アメリカで語学留学をしながらアメリカの看護師資格を取るという留学案内でした。まさにパーフェクトなタイミングだったと思います。私は迷わずアメリカ留学することを決めました。十分な貯蓄がなかったため、その後の3年間は留学費用を貯めるために必死で働きました。そして3年後、単身渡米することができました。

留学後、はじめは語学学校で英語力を伸ばすことから始め、NCLEX(アメリカ看護師国家試験)対策クラスへと進級しました。そのクラスが始まった頃、私は教科書を一ページ読むのに辞書を引き引き、一時間かかっていました。涙が出る日もありました。日本語ならわかる医療語が英語だと全くわからない自分がもどかしかったのです。それに追い打ちをかけるように、アメリカでは無職のため、倹約生活を強いられ、車もないためバスでの通学。日本では割と楽な生活をしていた自分を回想しては虚しさに襲われたことが何度もありました。

渡米後1年半が経とうとしていましたが、無事にアメリカ看護師の試験に合格し、就職もでき、今ではアメリカで看護師として働き始めて7年が過ぎました。人種の坩堝のアメリカで、日本人を看護するのとは違うことも多く戸惑いながらですが、毎日素敵な同僚に囲まれて楽しく仕事をしています。現在はPACU(述語回復室)にて痛みに弱いアメリカ人を相手に毎日頑張っています。